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挫折続きの「憲政の神様」——尾崎行雄
4/17/2020 9:37:09 AM  文/本誌編集長 蒋豊
 
 

日本に観光に来た中国人の多くは、日本の政治の中心を見たいと言う。そんな友人に、私はいつも永田町に行くよう勧める。永田町には国家議事堂、衆参議員会館、与党自民党本部、野党の本部、そして国会前庭や憲政記念館もある。

憲政記念館には、日本の初代総理大臣である伊藤博文が朝鮮の志士である安重根に狙撃された銃弾も保存されており、また国会の議場体験コーナーもあり、見学に来た子どもたちの参政意識を育むようになっている。私が注目したのは、記念館のロビーの入り口に立つ「議会政治の父」と呼ばれる尾崎行雄の銅像である。

日本の政治家の銅像は多くが立像で、坐像は少ない。これは世を去った政治家を座って休ませないためか、それとも、政治家にはまだ未完成の仕事があるということを立ち姿で示したいためなのか。

江戸、明治、大正、昭和の四つの時代を生きた尾崎は、実に「四代の元老」であり、1954年に95歳でこの世を去った。出身を遡れば、彼も「官二代」(政府高官の二世)である。彼の父は地方の役人であった。彼は「私学の雄」の一つである慶応義塾(現大学)に入学したほどの勉強家であった。しかし、在学中に教授に対して批判的な論文を書いて退学したため、卒業はしていない。日本の政治家にも大卒にこだわらない人はいる。現在の安倍内閣の財務大臣である麻生太郎は、米国留学中、母親が毎月漫画の小包を送っただけでなく、早めに帰国して選挙に出るように言った。米国の学校長はあと1年在学しなければ卒業証書は出せないと言ったが、麻生の母は「我が家では外国の大学の卒業証書は必要ない」と答えたという。

尾崎は『新潟新聞』、『郵便報知新聞』で主筆や論説委員などを歴任した。その当時、ジャーナリストは皆反骨精神の持ち主であり、為政者と徹底的に対決し、これにより自身の「批判精神」を見せつけた。のちに、彼は日本の著名な思想家であり啓蒙家である福沢諭吉の元に走り、1882年(明治15年)に立憲改進党の創設に参加し、日本の政党政治のパイオニアの一人となった。1887年、尾崎は政変を画策し、「保安条例」に違反したとして東京からの退去処分を受け、イギリスロンドンに留学するしかなくなった。これが、尾崎の政界における1回目の挫折である。

志のある者は生きる場所が変わっても初心を変えることはない。1890年、日本は史上初の衆議院総選挙を実施、尾崎は高得票で当選し、衆議院議員となった。ここから、驚くことに1952年まで連続25回当選し、史上最長の63年間にわたり国会議員を務めたのである。

1898年、尾崎は第一次大隈重信内閣の文部大臣に就任した。しかし、彼は大臣となっても舌鋒を弱めることはなく、時節に合わない演説をして東京日日新聞に批判された「共和演説事件」により辞職せざるを得なくなった。これは、日本政界における尾崎の2度目の挫折である。

1900年、中国では義和団事件が勃発し、尾崎は日本で憲政政友会を立ち上げた。1903年(明治36年)から1912年(大正元年)まで、尾崎は首都東京市の市長を務めた。その間の重要な外交活動として、米国にサクラの木を贈った。のちに、米国では毎年4月にワシントンで「桜祭り」が開かれるようになった。また、田中角栄元首相も中日国交正常化の際に中国にサクラの木を贈ったが、これは先輩政治家の影響があったのかもしれない。

尾崎の2度目の入閣は第二次大隈内閣の司法大臣としてであった。1912年、日本で第一次護憲運動の際、尾崎は犬飼毅ら234名の議員と共に、桂太郎首相が宮中と政府の別を乱し、私利私欲をはかり不正を働いたなどの憲法違反を弾劾した。同時に、彼は「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸として政敵を倒そうとするもの」と桂太郎首相を攻撃し、その結果、桂太郎内閣は総辞職に追い込まれた。尾崎はこの時の勝利により、「憲政の神様」と呼ばれるようになった。

1914年、第一次世界大戦勃発後、尾崎は晩年、民主主義、平和主義、国際主義の立場から、軍国化に反対し、ファシズムに抵抗し、世界平和を提唱した。しかし、彼は孤立無援であった。1940年代には、日本は軍国主義の道を突き進み、尾崎は東條英機に対して書簡をしたため、不満を述べた。1943年、彼はその言説により、昭和天皇に対する不敬罪に問われた。政界のライバルたちは彼を徹底的に抹殺しようした。しかし尾崎の社会的影響の大きさから無罪となった。これは彼の3度目の挫折である。戦後、尾崎は政界を勇退し、衆議院の名誉議員の称号を得た。

当時の政治家にとって、中日関係は避けられない問題であった。尾崎は立憲政治を主張してはいたが、外交上は軍事侵略などの対外拡大政策を支持していた。1894年の春、朝鮮で甲午農民戦争が起きた。開化派(独立党)のリーダーが朝鮮の刺客洪鍾宇に暗殺され、尾崎はこの事件を口実に日本の軍隊を進軍させるよう主張し、朝鮮の宗主国であった清朝の罪状を責めた。1894年の日清戦争の背後には尾崎がいたのである。

一方、尾崎と中国との美談も記す必要があるだろう。その一つは、孫文が辛亥革命の後に日本に亡命したとき、日本での住居を手配した中村弼は若い時に新聞記者で、そこから政界に入ったのだが、彼は尾崎が文部大臣の時に秘書を務めていた。また孫文が亡命した時、尾崎は第二次大隈内閣の司法大臣だった。日本の学者の考証によると、中村弼は尾崎の指示のもとに孫文の住居を手配したという。この期間、孫文は尾崎に「仁寿」と揮毫している。これは今も尾崎家で大切に保存されているという。のちに、孫文が自伝「建国方略」を執筆した際、革命に翻弄された人生の中で何人かの日本人に感謝している。その中に尾崎行雄の名前もあった。

もう一つの美談は、1921年、現代中国の著名な文学者である郁達夫が日本に留学したときのことである。彼は政界の大物である尾崎の演説をはじめて聞いたとき、中華民国を清国と呼んでいるのに気づいて挙手し、「あなたはなぜ辛亥革命以降の中華民国を依然として清国と呼んでいるのか。中華民国のことを知らないのか、それともわざとそう呼んでいるのか」と質問した。尾崎はばつの悪い顔をして何も言えなかったが、最後にはうっかりしたと述べ、謝罪した。このことから、尾崎は間違いと知ればすぐに改める人間だったことが分かる。

1954年10月4日、尾崎行雄は直腸ガンのため慶應病院でこの世を去った。彼の墓所は小京都鎌倉の円覚寺にある。

 
  情報元:人民日報海外版日本月刊  
 
 
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