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馬淵 昌也 千葉県一宮町長
陽明学を行政に生かす
1/22/2020 5:11:29 PM  文/本誌編集長 蒋豊
 
 

現在までに『人民日報海外版日本月刊』編集長として、日本の47すべての都道府県知事のシリーズインタビューをおこなってきた。今回のインタビューは、千葉県一宮町の馬淵昌也町長であるが、知事たちに対する期待と気持ちは変わらない。

馬淵昌也町長と私は初対面ではあるが、私たち二人の間の縁はさまざまにつながっており、以前から結ばれていた。彼は東京大学文学部を卒業後、1983年日本の公費留学生として北京大学に留学したが、私は現在北京大学歴史学部の客員教授を務めている。2010年、彼はアメリカのハーバード大学の客員研究員となったが、私の外祖父である楊聯陞は長きにわたってハーバード大学で教鞭を執っていた。2012年、彼は北京師範大学哲学部の客員研究員となったが、そこは私の母校である。

馬淵町長は長い間陽明学を研究している学者である。2016年、彼は教育から政治の世界に入り、「知行合一」理論により地方行政に従事している。ゆえに、私はインタビューだけでなく、教えを受け、導いてもらう気持ちで、彼の行政方針と方法を理解したいと考えた。

駅でお目にかかると、馬淵町長はあいさつもそこそこに、現地の風土や人情を理解させるため、一宮町を案内してくれた。玉前神社の鳥居の前で参拝していた83歳の老婦人に出会った。自身が生まれ育ち、住み続けている土地にはさまざまな思いがあり、取材だと知ると、一宮町の状況を熱心に紹介してくれた。一緒に記念撮影をすると、馬淵町長はノートを取り出し、写真を送るために彼女の住所を控えた。私たちが出会いに感謝しつつ神社の中を歩いていると、先ほどの老婦人が戻ってきて当地の名物のお菓子をプレゼントしてくれた。遠方から来た客人に当地の名物で気持ちを伝えようとしてくれたのである。その純朴さ、純粋さは、陽明学で行政をおこなっている町長にさらに好感を抱かせたのである。

中国留学は一生の宝

—— 1983年、文部省(当時)の公費留学生として中国の北京大学に2年間留学されましたが、中国での生活を体験されていかがでしたか。一番印象に残っているのは何ですか。

馬淵 私は中国伝統文化に大変興味を持っており、東京大学の指導教授も、中国人の生活に入らなければ中国に対する認識を養うことはできないと言っていましたので、中国への留学を決めました。

1980年代初頭の中国は、改革開放政策が始まったばかりで、目にするすべてのものが、私の想像とは違っていました。私は中国の文化財、寺、服飾などの伝統文化を見るのを楽しみにしていました。でも、残念ながら当時の中国の人々は着るものも質素で、家具や生活用品、建築なども古風で古典的なものはありませんでした。

衣、住はすべて変わっていましたが、食の分野ではまだ伝統的な魅力が保たれており、中国料理のおいしさには驚きました。当時の中国は物資もそれほど豊富ではなく、物流もスムーズではありませんでしたが、人々は限られた材料を使って才能や知恵によって、多くの特色ある料理を作っていました。北京の胡同では、昔からの北京っ子しか知らないグルメがあり、安くて絶妙なおいしさでした。

限定された条件のもと、無限の能力を発揮し、廉価な材料を使って一流の味を作り出す。これは民間の一種の生活の知恵であり、庶民生活のパワーです。残念ながら日本社会にはそこまでの素晴らしいパワーはないと認めざるを得ませんでした。

外国での留学生活、旅行では多くの不便は避けられませんでしたが、私は中国の人たちの熱心なサポートによって、順調に2年間の留学生活を過ごすことができました。

そのような生活体験によって、私は孟子の「性善説」を真に理解しました。中国社会は流動性が高く、一度出会った人と再会できることはまれです。そういう中で、人は必ずしも始めて会った他人に親切にしなくても差し支えはないわけです。しかし、そうした中において、一部の人々は、非常に善良で、親切であり、そういった人々がまさに中国社会の支柱を構成しており、それが孟子のいう「人の性は善だ」ということであるとわかりました。私はこうした中国の社会に敬意を抱きました。

北京の留学期間中、私は一人の親友に出会いました。同じ寮の王中江君です。同い年の彼は河南省の臨汝県から来ていました。今は北京大学の教授です。私にとって、彼は、一生涯にわたる、日本にもいないほどの最も親しい友人となったのです。中国留学の2年間は、生涯の宝物であり財産であり、忘れられない思い出です。

学びを役立てる
民を基本とする

—— 東京大学、専修大学、学習院大学で教鞭を執られていたわけですが、なぜ教育から政治への選択をされたのですか。陽明学の研究者として、研究の成果をどのように地方自治に応用されていますか。

馬淵 学而優即仕、学んで余力あるものは官となれ、という論語の一節通り、中国の大儒者たちはほとんど官僚となって、民のために仕事をしています。大阪大学の濱島敦俊名誉教授の有名な大著『明代江南農村社会の研究』には、明代の知識階級が自発的に不合理な税制を改革し、民衆の生活改善、地域社会の安定維持のために貢献したとあります。彼らの、自分自身を犠牲にして社会のために尽力した精神は、私に大きな啓発をもたらしました。

大学教授として、象牙の塔の中で研究に没頭していれば、甚だ快適ではありますが、外の社会の状況とは切り離され、隔靴掻痒の感は免れません。中国の士大夫に学び、自身の能力と人脈によって社会に深く関わり、自身の才能や学識で社会の進歩を推し進めるほうがいい、と考え、政治の道へ進むことを決断しました。これも陽明学の主張する「知行合一」精神の実践なのです。

—— 「知行合一」について、中国の知識分子は陽明学を一種の思想道徳の修養と考えていましたが、明治維新以降、吉田松陰、西郷隆盛、東郷平八郎など日本の革命家や軍人は、陽明学を改革、武装蜂起、戦闘に応用しています。なぜこのような違いがあるのでしょうか。

馬淵 それは武断主義と文治主義の違いだと思います。日本は武家思想の影響が大きく、陽明学を引用して印象付けることで、多くの革命家の原動力の一つになりました。日本では、武力による現状破壊の原動力として、陽明学はあったというべきでしょう。しかし中国は一貫して文治主義を主張しており、現状を改革するとはいっても、建設のニュアンスが強かったと思います。私の東京大学での指導教授である溝口雄三先生は、中国の文治主義の原理は「全数的生存」構想で、いかなる一人の生存も放棄しないという考え方だとおっしゃっていました。中国では、陽明学は、この原理を確保するための原動力として機能しました。

また、中国近世の儒教では、人の心の中の本性はそのままに理であり、それはまた天の本質でもある、と主張しています。そこで中国の陽明学者は静座などにより、心に沈潜して、天の理を悟る経験をもちます。しかし、日本人は、私も含めて、そのような枠組みを共有しておらず、個人的な体験も乏しいのです。日本では江戸時代、大塩平八郎だけは、天の理に到達する境地を有していたかもしれません。しかし、大塩平八郎は陽明学者として、一揆の主導をしました。武力による体制変革をめざしたのです。実際、日本と中国の陽明学者の間には一定の距離があります。

陽明学の思想を地方政治の現場にいかに応用するかということでは、私は王陽明の『伝習録』の中から例を挙げたいと思います。「泰山は大きさで平地の大きさに及ばない」、「満街これ聖人」です。私の理想は「平地」のような人間となり、高所から人に指示をしないことであり、私の目の前の一宮町も「満街これ聖人」(街中聖人が充ち満ちている)とみることです。「百姓日用即道」(聖人の道は一般人の生活の中にある)ですから、住民を基本とし、住民を主人公とした行政を行わなくてはなりません。

多彩な文化、尽きない魅力

—— 一宮町はまもなく開催される東京オリンピック・パラリンピックのサーフィンの競技会場でもあります。町長として、いかにこの観光資源を活用していくつもりですか。

馬淵 近年、ますます多くの、中国をはじめ諸外国の観光客が日本を訪れています。初回ではちょっと触れてみて好感を抱き、2回目では日本の風土や人情などの深い魅力を体感して頂いています。このような観光客、特に文化に興味を持つ人にとっては、私たち一宮町は魅力のあるところだと思います。

まず、一宮町の東側には九十九里浜が、南東にはオリンピックサーフィン競技会場の釣ヶ崎海岸があり、1970年代から日本のサーフィン愛好者たちのメッカになっています。当地にはサーフィン用品店が20軒以上あり、年間延べ60万人のサーファーを迎えています。海沿いには英語の店名のカフェやレストランも多く見られます。海から一歩入った農地地区では、トマト・メロン・ナシの栽培が行われ、品質は折り紙つきで、郡名の「長生」をブランド名として確立しています。

また、一宮町は昔から神々の地であり、中心部には上総国一宮の玉前神社があります。永禄年間に戦火で焼失したため、実際の創建年は確認できませんが、平安時代の『日本三代実録』に神社の記載があり、醍醐天皇の『延喜式神名帳』の中には玉前神社を上総国一宮「名神大社」と称しています。玉前神社のご祭神は神武天皇の母・玉依姫命です。地元には、玉依姫命は釣崎海岸から上がってきたという伝承があります。

さらに、一宮町には「東の大磯」という別称があります。神奈川県大磯町は日本の近代の重臣、名士の保養地、別荘地でありましたが、一宮町も同様でした。第二次世界大戦前、加藤友三郎首相、平沼騏一郎首相、斎藤実首相の3人の首相をはじめ、上原勇作陸軍元帥、秋田清衆議院議長、連合艦隊の吉松茂太郎司令官、三井物産の三井八郎次郎社長、漫画家の北沢楽天、『グリム童話』翻訳者の金田鬼一、詩人の白鳥省吾など日本政財界の要人、学者文士たちが次々に別荘を修築しました。文豪の芥川龍之介、東郷平八郎元帥、小説家の尾崎紅葉などもこの地に遊んだことがあります。

中国との縁といえは、一宮町には「洞庭湖」があります。江戸時代の藩主加納久徴は中国の漢籍を熟読し、領民のための治水工事をおこなった際、地名の中に「洞」という文字があるのを見て、中国の洞庭湖を連想し、あこがれの気持ちからこの地の貯水池に「洞庭湖」という名を付けたのです。

東京からJRに乗ると、約1時間で一宮町に着きます。一宮町から成田空港や羽田空港までは1時間ほどしかかかりません。古代の日本と現代の日本、田園風景と長い海岸線、歴史地区とサーフィン、すべてがここで融合しています。この多彩な文化が融合した、多くの人々が集まる、多様な魅力、風情を持つ小都市は、どのような観光ニーズも満足させることができるのです。

取材後記

馬淵町長を取材したその日、私は日本の地方自治体の「首長」について知見を得た。寿司屋では作業服を来た老紳士が物おじせずに町長の服をどかさせた。菓子店の女主人はなぜ町のほかの店に先に行ったのかと町長に文句を言った。道端で出会った中高生、農家の人、子どもを抱いた若い母親……年齢や職業はさまざまだが、馬淵町長はその都度足を止めてあいさつし話をした。事の大小を問わない責任と義務が感じられた。

玉前神社の前にある、地方の手工芸品を並べた小さな店にしばらくいたのだが、帰り際に記念撮影した際、意外にも女性店主が若いときに北京の中央美術学院に留学していたことを知った。なんと彼女は馬淵町長の奥様だった。中国との縁によって結ばれた夫婦である。まさに地方から中日両国の子々孫々の友好が積極的に推進されているのである。

 
  情報元:人民日報海外版日本月刊  
 
 
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