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編集長インタビュー
 
 
 
 
鈴木 賢治 株式会社47PLANNING社長
福島県震災後の再建を担った日本の若者
2019/03/22 11:52:28  文/本誌編集長 蒋豊
 
 

東日本大震災がおさまったばかりで、福島県の農産物に対する「風評被害」が最も深刻だった2011年4月、日本の首都東京で新しい福島産農産物を材料とした専門レストランがオープンした。

このニュースを聞いて、私は心中に疑問が生じるのを禁じえなかった。この店に出資し開店した鈴木賢治という青年は、情勢に逆行し目立ちたいのだろうかと思った。彼は話題に「乗じて」世間の関心を引きたいのだと感じ、このレストランを営業し続けられるとは到底信じられなかった。

ところが、意外なことに、あっという間に7年が経った。在日30年の私が日本を観察してきたところでは、今の日本の若者世代は、生まれた時から世界第2位の経済大国に身を置き、その物質的豊かさの中で育ったことで、起業しようとかいう気持ちが乏しくなっている。しかし、36歳の鈴木賢治氏は、明らかにそれらとは「別物」だった。そこで、私は彼にインタビューしようと思い立ったのである。


撮影/本誌記者 張桐

地域文化の振興を志す

—— 2009年に「47PLANNING」という会社を設立されていますが、この「47」は日本の都道府県を指すのですか。

鈴木 私は日本の福島県で生まれ、大学の時に東京に来ました。成長する過程で、私はよく両親について日本各地を旅行しました。ご存知の通り、戦国時代の日本は一つ一つの「小さな国」で成り立っていました。現在まで、飲食文化だけでなく、歴史的な風情といった面でもそれぞれ以前の「小さな国」が持っていた独自の魅力が今もまだ残っているのです。二十歳の時、私はシンガポールで2カ月間暮らしました。その時に日本を外側から見つめる機会を得て、日本は四季が鮮明で、深遠な文化がある国だということが身に染みて分かったのです。

ただし、日本の地方都市は人口が減少し続けていて、多くの古い伝統文化の後継者がいません。私はこの事に非常に心を痛めました。私達は先祖から歴史を受け継ぎ、人々が代々切り開き発展させてきた地域文化の受益者なのです。こういった地域文化が消滅しようとしている時に、唯々見過ごすことなど出来ないでしょう。もし、私達が行動をしなければ、数百年、数千年以上受け継がれてきた多くの地域文化の特色が30年以内に消失してしまうのです。この方面では、ただ日本政府や政治家に頼っているだけではダメなんです。より必要なのは、私達自身が行動を起こすことなのです。こういった考えの基に、私は47PLANNINGという会社を設立し、有志の皆さんと一緒に日本47都道府県を振興したいと願っています。

震災後の初心を忘れない

—— 2011年4月、歴史上稀にみる東日本大震災が発生して間もない時、社長は東京で福島県の農産物を材料とする専門レストランをオープンし、社会に大きな反響を引き起こしました。実は、その反響は、毀誉褒貶相半ばしていて、日本国民の福島県に対する同情を利用しているとの批判までありました。これについて、どう思われますか。また、レストランの主な客層はどういった人々ですか。

鈴木 実は、故郷の福島県を日本全国に広めるために、私は2010年にはすでに、東京で場所を見つけて内装工事も進め、お店を開店する準備をしていましたし、予定では2011年6月が正式オープンでした。福島県の海産物を主に打ち出した炭焼き海鮮等がメインです。オープンの一カ月前、2011年3月に東日本大震災が発生し、福島県の海産物が全面使用禁止になるなんて、全く思いもよりませんでした。

自然災害に直面すると2種類の選択肢しかありません。一つは逃げること、もう一つは困難に立ち向かうこと。私は、後者を選択し、また故郷の福島県を広めたいという初心は変わらなかったので、予定通りの期日にレストランをオープンしました。ただ、主力の海鮮を肉と野菜に変更しなくてはなりませんでした。例えば「会津地鶏」なんかにです。最初に私達を支持してくれたのは、福島県から東京に出てきていた故郷の人でした。後に、だんだんと東京の人が食べに来てくれるようになりました。彼らもこのような方法で福島の被災地が頑張って復興するのを応援したいと思ってくれたのです。

私が強調したいのは、このレストランは東日本大震災発生の一カ月前にオープンの準備を始めていたということです。ですから、「みんなの福島に対する同情を利用している」という言い方は、実にアンフェアです。反対に、大震災が発生した後、会社内でも、今福島の食材を使うのはあまりにリスクが大きく、恐らくオープンしてもお客さんは来ないのでは、という意見がありました。大震災の発生前、私は福島の農家一軒一軒を自ら回ってお願いしたことを忘れてはいませんでした。震災が発生した後、彼らがサポートを必要としている時に、私が手を振って「すみません、私達は他所の食材を使うことにします」なんて言えますか。もしそんなことをしたら、私は別の形で「風評被害」に加わるのと等しいことになります。

このために、私は皆に震災前の運営方針を堅持するように説得しました。また、どのような困難があろうと、このレストランを3年間は支えると決心しました。日本には「石の上にも三年」ということわざがあり、これは、冷たい石の上にも三年間座れば暖かくなるという意味です。私は正にこれを自分自身に求めました。

1992年に日本のテレビ局の朝日放送で「汚染地の苦悩、農作物の安全問題」という番組が制作されました。それは民間の測量会社である株式会社環境総合研究所を使って、埼玉県所沢市のほうれん草などの野菜に対して測量を行い、野菜の中に高濃度の発がん性物質ダイオキシンが発見されたと公言し、各地のスーパーで埼玉県産の農作物を販売停止に追い込みました。当時の中川昭一農林水産大臣が朝日放送の報道に対して調査を要求し、小渕恵三首相も事実をはっきりさせるために自ら現地の農家に赴きました。その結果、番組のでっち上げとデーターの虚偽が明らかになり、テレビ局と環境総合研究所は農家に対し一千万円の和解金を支払いました。しかしながら、「風評被害」はすでに形成されており、消費者の偏見を是正するのは非常に困難でした。

あれから長い年月が経ち、今再び埼玉県の農作物に問題が起きると思う人はいません。ですから私は、「風評被害」を取り除くには、長いプロセスが必要で、福島の農作物と水産物も同じだと思っていますし、時間が経てば消費者も再度これらを受け入れてくれると信じています。ただし、この大変長い過程の中で、私は自分の力を尽さなくてはなりません。

飲食店街をつくる

—— 福島の被災地復興のために、社長が投資して、いわき市の駅前に飲食店街をつくり、そこを「夜明け市場」と名付け、現在では年間平均10万人のお客を呼び込んでいることを知りました。具体的に「飲食店街」の復活プロセスを紹介して頂けますか。

鈴木 実は、私の両親の家も東日本大震災で津波にのみこまれてしまいました。父の経営する製氷会社は海から比較的近くにあり、まさに心血を注いでいました。現地でガスも電気も停止したと知った後、私は会社の社員10名を連れてキッチンカ―を運転し、被災者たちのために出来立ての家庭料理を500食用意しました。被災者の人々は非常に感激して、涙を流す人もいました。

もしも、私たちの求めるものが自身の満足感であれば、あるいはこういう事をすることでいいのでしょう。しかし、私たちがやりたいのは、故郷復興の為に真に継続的に力を尽くすことです。

一回また一回と被災地に行くことによって、私は多くの働き盛りの住民が仕事を失ってしまった事を知りました。例えば、私の父はその時62歳でした。定年退職にはまだ早いと言えます。命が助かって、住むところが確保できた後、働きたいと言っていました。当時ここには、父のような人がとても沢山いました。ですから、私は2011年4月7日から会社をスタートさせ、みなさんの意見を聞いた後、現地の人の力を集めて、一緒に駅前に飲食店街をつくったのです。

当時、駅前の飲食店街には全部で30軒の店があり、その中の23軒は閉店状態でした。駅から歩いてたったの2、3分の距離です。みなさんの努力で、2011年の11月4日、私たちは先ず2軒オープンしました。その後、着実に発展し、社会でも徐々に知名度が上がり、今ではすでに14店舗が営業しています。

 
  情報元:人民日報海外版日本月刊  
 
 
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