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明治維新150周年、中国の改革開放40周年に思う
2019/01/24 13:42:38  文/本誌編集長 蒋豊
 
 

時代はめまぐるしく変化する。世界史の側面からも、アジア史の観点からも、或いは日本史の観点、中国史の観点からも、2018年は立ち止まって思いを凝らすべき重要な年であった。

2018年は日本の明治維新150周年であり、中国清朝が明治維新に倣った戊戌の政変―百日維新120周年、さらには、偉大なる成果を収めた中国の改革開放政策施行40周年、改革開放の総設計師鄧小平の訪日40周年であった。

一衣帯水の両国はともに悠久の歴史を有し、西側諸国の植民地支配と脅威に晒されながら、自身の力で変革を成し遂げ道を切り拓き、国力を増強し、繁栄と安定を築いてきた。歴史のスポットライトは、同時に今という時を照らしている。激動する時代の転換点に立ち、日本の明治維新と新中国の成立、特に中国の40年の改革開放の歴史との関係を探究することは極めて意義深いことであろう。

一、明治維新が新中国のリーダーに与えた多大な影響

1910年秋、17歳に満たない毛沢東は、人里離れた韶山から修学のため長沙へ発とうとしていた。出発に際して彼は、明治維新の「三傑」である西郷隆盛が青年時代に詠んだ漢詩に手を加え、父親の帳簿の間に挟んだ。「男児志を立てて郷関を出づ、学もし成るなくんば復還らず、骨を埋むるに何ぞ墳墓の地を期せんや、人間いたるところ青山あり」とあった。そこには人生の旅立ちに際しての勇壮な思いが留められているとともに、明治維新の強い影響が感じられる。


西郷隆盛

百年余り昔の情報の乏しい時代に、小さな山里に住む少年が、如何にして日本社会を幾度となく揺るがした西郷隆盛の詩に触れ、心を動かされたのか。ある研究によると、毛沢東は郷里の村を離れる前に東山高等小学堂で半年間学び、学堂には日本に留学経験のある教師がいた。毛沢東はこの教師から、日本が明治維新を経て強大な国家になったことを知り、大変羨んだという。彼は、中国も日本の明治維新に学び富国強兵の道を進むべきだと考えた。


梁啓超

1917年9月、19歳の周恩来は日本へ留学した。出国前夜、彼は見送りに来た友人に『無題』と題する詩を書き贈った。「大江歌うを罷(や)め、頭を掉(めぐら)せて東す。群科邃(きわむ)ること密に、世の窮(くるし)むを済(すくわ)んとす。壁に面(むか)うこと十年、壁を破らんと図る、酬(むくわ)るるは難(かた)しといえども、海にとび蹈(い)る亦英雄」と。中国近代史に精通する人には知られた詩である。「大江歌うを罷め、頭を掉せて東す」は、周恩来が清朝末期の維新の志士梁啓超の影響を受け、彼の詩を引用したものだ。1898年、戊戌の政変が失敗に終わり、日本に亡命した梁啓超は、一首の長編詩『去国行』を詠んだ。冒頭に「情を絶ち涙を忍んで国を去る、頭を掉せて我を顧みず東す」と詠み、日本へ渡らなければならないやるせなさと、その必要性を吐露している。一篇を通して書物を拠り所としながら、中日の歴史上の人物と出来事を引用し、日本の明治維新に対する称賛と肯定を表明している。文末の「前途には険しい山が幾重にも重なるが、頭を掉せて我を顧みず東す」の句では、学びの旅への決意を重ねて強調している。救国済世の志を抱いて日本に渡った周恩来と、日本の明治維新から学ぼうとした梁啓超には相通じるものがあり、その思いは同じである。周恩来が梁啓超の詩を引用したことも頷ける。周恩来の詩からは日本留学に対する願望と明治維新後の日本から学ぼうとする決意が読み取れる。

二、明治維新が中国の改革開放の総設計師鄧小平及び改革開放の提唱者胡耀邦に与えた影響

1977年5月24日、まだ完全には復活していなかった鄧小平は「明治維新は新興資産家階級による近代化であった。しかし、我々は労働者階級である。彼らよりうまくやれるはずだ」と語った。鄧小平には、「明治維新」とその発動者である新興資産家階級、そしてその行動目的である「近代化」に対する明確な位置付けがなされていたことがわかる。さらに重要なのは、「我々は労働者階級である」との自覚と、「彼らよりうまくやれる」との覚悟をもっていたことだ。

「近代化」の概念を定義することは難しいとされるが、鄧小平の考える「近代化」とはどのようなものであったのか。氏は「日本の新興資産家階級は明治維新以来、科学技術と教育に力を注ぎ大きな成果を得てきた」と語っている。彼の心にはすでに、「近代化」の重要な側面の一つに、科学技術と教育の近代化があるという明確な答えがあった。

2018年は鄧小平の訪日40周年である。1978年の訪日について、メディアや学界では様々な論評がなされたが、この訪日が中国の持続可能な発展を始動させる「科学技術の旅」であったと認識する者はほとんどいなかった。氏は日本滞在中、日本の高度な交通科学技術の象徴である新幹線に乗り、日本の各業界の代表的企業である日産自動車、松下電器、新日鉄の君津製鉄所を視察した。これら高度な技術を擁する企業は、国民生活に直接影響を与えるだけでなく、国際社会に向けて日本のイメージや地位を示し、住、建、流通の「近代化」によって日本社会の基盤を構築してきた。

鄧小平は日本の近代化のプロセスを様々な側面から徹底的に調査し、科学技術の発展がもたらす偉大な成果を痛感した。そして、中華民族の発展のための壮大なる改革開放の青写真は、総設計師の頭の中で徐々に形づくられていった。新幹線に乗った感想を、「後ろからムチで打っているような速さだ。我々は駆け出す必要に迫られている」と語り、日産自動車を見学して、「近代化とは何かがわかった」と話し、君津製鉄所では、研修中の中国人労働者を「しっかり学んで、技術をマスターしてください」と励ました。さらに、松下電器では、「我が国が学ぶべきものはたくさんあるが、松下先生と皆様には電子機器の技術支援をお願いしたい」と語った。鄧小平の日本への「科学技術の旅」があったからこそ、中国は改革開放から40年間、一貫して「科学技術の近代化」を追求し、それは今日においても中国発展の重要な課題となっている。

1986年4月19日、鄧小平は、大陸への教育支援で知られる香港の著名な実業家包玉剛らと会見した際、「日本の明治維新は教育、特に初等教育から着手し、彼らは道徳教育に力を注ぎました。徳育は社会主義特有のものではありません。資本主義にもあるのです」と語っている。彼は、「科学技術」と「教育」は明治維新の二つのキーワードで、社会の進歩と文明の発展を支える原動力であり、国民生活を向上させ国力を増強する燃料であると考えた。そして、中国の改革開放政策においても、この二つの分野を入念に構想、推進した。

中国共産党湖北省委員会党校の周大仁元常務副校長は、『中央党校での思い出』に、こんなエピソードを紹介している。「1980年、胡耀邦校長が読書について講義した。氏は当時65歳であったが生気に満ちていた。彼の講義は楽しくウィットに富み生き生きとしていて、皆、彼の授業が一番好きだった。彼は講義で日本の吉田茂首相(1878—1967)の『激動の百年史』を読むよう薦め、『日本は明治維新以降、わずか百年の間に国家の命運を左右する二つの激動の年代を経てきた。一つは明治維新、もう一つは戦後の復興である。ともに荒廃からの勃興であった』と紹介した」。

周知のように、日本の吉田茂元首相は『激動の百年史』で、日本の明治維新以降の百年の発展の道のりを総括し、「教育が近代化に果たす役割は大きい。それはおそらく、日本の近代化の最大の特徴である」と述べている。胡耀邦は当時、「我々は近代化を実現し、中華民族を繁栄させなければならない。それには、教育を発展させ、学び、人間の質を高めることが必要だ。それによって日本を超えることができる」と語った。胡耀邦は日本の明治維新から学ぼうとしただけでなく、目標を「日本を超える」ことに定めていたことがわかる。

胡耀邦の薦めで1981年1月17日、中国共産党中央委員会の機関紙『人民日報』に「『激動の百年史』を読む」が掲載され、「日本の明治維新の指導者たちは、『維新の大業はリーダーだけで為し得るものではない、教育を受けた多数の国民の手を借りなければならない』と考えた。そして、明治時代より、日本は教育の普及に取り組み人材を育成してきた。指導者を養成する大学であっても、出自や財力に関係なく、能力さえあれば貧しい家庭の子どもも入学できたのだ」と論じた。

「他山の石以(もっ)て玉を攻(おさ)むべし」。日本の明治維新の成功体験は書物で学ぶだけでなく、自ら現地を視察すべきである。1983年11月、胡耀邦は中国共産党総書記として訪日し、大阪で工場を視察した際、「世界一流の工業の近代化を創出した日本の企業家、科学技術者、そして多くの労働者に敬意を表す!」と揮毫した。「科学技術者」はキーワードとして注目に値する。

アメリカのニューヨーク市立大学ハンターカレッジ政治学科のザゴリア(Donald Zagoria)教授は、中国の改革に関する論文を、アメリカの季刊誌『フォーリンポリシー』1984年春季号に寄せている。そこには次のような一文がある。「中国経済改革の中心的指導者であった胡耀邦は、明治維新に関する資料に幅広く目を通した。中国の指導者たちが、中国と多くの共通点をもつ日本の経験を重要視し、現在の改革を歴史の脈絡で捉え、その改革を永続させようと考えていたことがうかがえる」。

2005年10月、『激動の百年史』が陝西師範大学出版社から再版された。あとがきには、「本書は1980年代に注目を浴びた一書である」とあった。胡耀邦が本書を強力に推奨した結果である。

三、明治維新が中国新世代の政治指導者たちに与えた影響

1998年11月、当時の江沢民国家主席が6日間の日程で日本を公式訪問し、これは、二千年の日中交流史において、初の国家元首の訪日となった。江沢民主席は直接明治維新には触れていないものの、明仁天皇主催の宮中晩餐会で、「長きに渡り、両国は互いに学び互いを手本としながら発展してきました」とスピーチした。筆者は、この「互いに学び」には明治維新も含まれていると考える。

当時、鄧小平が明治維新が日本に科学技術の発展をもたらしたことに注目していたとすれば、江沢民の訪中でも、中日の科学技術の交流が重要視されたであろう。氏は経済6団体主催の歓迎昼食会において「両国は、ハイテクおよび産業技術の分野における協力を強化する必要がある。世界の科学技術の進歩は日進月歩の勢いを見せ、各国の発展と前途を決める重要な要素の一つとなっている。中日両国はこの面で互いに優位性を持ち、協力の見通しがある。技術移転を積極的に展開し、協力の質を高め、共同発展に寄与することができると考える」と述べている。

当然、我々はこの時期の中国の指導者たちが、明治維新以降、日本が中国に与えたマイナスの影響にも目を向けていた点も見逃してはならない。1995年9月3日、首都各界による抗日戦争記念世界反ファシスト戦争勝利50周年大会の席上、江沢民主席は「明治維新以降の70余年間で、日本は一連の侵略戦争を発動し、それに参画し、その大半が中国への侵略戦争でありました。1874年の台湾出兵、1894年の甲午戦争(日清戦争)宣戦布告、1931年の満州事変、1935年の華北事変と、中国併合の野心は膨張を続けました。そして、1937年7月7日の宛平城砲撃と盧溝橋進攻をきっかけに、日本の侵略者は中国全土の統治を企図する全面侵略戦争を発動したのです」と語っている。これは、江沢民主席の日本に対する発言において、「明治維新」に明確に触れた稀なケースであり、氏が明治維新を日本軍国主義の起点と捉えていたことが見て取れる。これも見落としてはならない点だ。

2007年4月12日、来日中の温家宝総理は国会での演説で、「私が思うに、明治維新後、日本の経済と社会は急速に発展し、多くの中国の志士が来日し、近代科学技術と民主進歩思想を学び、中華振興の道を探求し中国の発展を促進しました」と述べた。ここでは明確に、明治維新後、中国の多くの志士が来日し、「近代科学技術」を学び「中国の発展を促進した」と強調しているのである。

2010年5月、温家宝総理は再来日し文化界の人士と語り合った際、「明治維新以降、中国の志士たちは日本に学ぶために来日するようになりました。これは中日の文化交流には長い歴史があるということの証明です」と、再び明治維新に触れている。

2008年5月8日、当時の胡錦濤国家主席は早稲田大学で講演し、「明治維新以降、日本国民はすすんで世界の先進文明を吸収し、アジア第一の近代化国家へと発展を遂げていきました。日本国民は限りある国土資源で、世界が刮目する発展と成果を挙げました。製造業、情報、金融、物流の分野で世界をリードし、世界トップクラスの省エネ環境保護技術を擁しています。それは日本国民の誇りであり、中国国民が学ぶべき点であります」と述べている。これは、中国の新世代リーダーの明治維新に対する評価であり、中国が持続可能な発展を推進する上での重要な教訓となっている。

四、現代の中国の指導者たちは、強大になった日本が軍国主義の道を進んだという明治維新の負の産物を重視

ある日本の学者は、甲午戦争(日本では日清戦争)を明治維新の産物の一つと検証している。明治27年に当たる1894年、日本人はこの年に起こった甲午中日戦争を「明治青春の戦争」と呼んだ。結果は中国人には認め難くとも、重要視し正視しなければならない、日本の勝利、中国の敗北というものであった。ここから日本は帝国「列強クラブ」に仲間入りし、中国の半封建半植民地社会の様相は深まり、中日関係は「中強日弱」から「日強中弱」へと完全に逆転した。


甲午戦争(日清戦争)

近年、習近平国家主席は甲午戦争について度々言及している。2014年6月9日、両院院士大会において、「今年は甲午(きのえうま)の年です。甲午は中国人民にとっても中華民族にとっても、我が国の近代史においても、特別な意味をもっています」、「中華民族の偉大な復興という目標を実現するため、科学教育による国家新興戦略とイノベーションによる発展戦略を堅持し、確固不動として科学技術強国の道を歩まなければなりません」と述べている。ここからは、明治維新の負の産物である、甲午中日戦争が中国にもたらした深刻な影響が見て取れるとともに、習主席は当時の中国が劣っていた点にも眼を向けている。氏が提唱する「科学教育による国家新興戦略」及び「イノベーションによる発展戦略」と、鄧小平がかつて論じた、日本が明治維新以降注力した科学技術と教育の発展という二つの視点には共通性と継続性がある。

注目すべきは、早くも2009年12月には、国家副主席として来日した習近平が、北九州市の環境保護とハイテク分野に優れた産業を視察していることだ。視察を終えて、「北九州市の環境保護とハイテク分野で蓄積された豊富な経験を、中国の実情にリンクさせるべきであり、我々は真剣に学ぶべきである。中国は現在、科学技術の発展、環境保全、エコ低炭素、循環型経済の発展に力を入れており、両国はこれらの分野での協力に大きな可能性を秘めている」と語っている。鄧小平が訪日時、日本の「科学技術」を重要視していたからこそ、習近平も日本の「ハイテク」に注目し、「中国は現在、科学技術の発展に力を入れている」ゆえに日本から「学ぶべきである」と語ったのであろう。これは鄧小平が中国の改革開放を設計する過程で、日本の明治維新以降の科学技術発展への取り組みから学ぼうとした姿勢を継承しており、歴史的、弁証法的観点、社会の発展という観点から明治維新を考察したものであり、また、中国が改革開放を実現するための実践でもあった。

2018年6月12日午後、習近平主席は中国膠東(威海)の党教育拠点である劉公島教学区を訪れた。習主席は東泓砲台遺跡に登り、北洋海軍威海衛基地の国防事務や威海衛防衛戦、劉公島防衛戦の歴史を学んだ。その後、甲午戦争博物館陳列館を訪れ、甲午戦争史実展を見学すると、「私はずっとここを見学に訪れたいと思っていました。警鐘を鳴らし続け、歴史の教訓を銘記すべきです。13億の中国人民は意気盛んに向上し、より素晴らしくより強大な国家を構築していかねばなりません」と話した。これは習近平の、明治維新の負の産物に対する正の反応とも言うことができる。

筆者は、日本は明治維新を成し遂げた後、覇権主義の道を歩むことはできなかったと認識している。今、中国は改革開放40周年を迎え大国として台頭する時にあって、日本の明治維新を教訓として、派遣侵略拡張という方法を取ることなく近隣諸国と交わり、「一帯一路」戦略構想の実現によって人類運命共同体を構築し、相互利益を追求している。弁証法的観点から、変化する中国と変化する世界を捉え、明治維新から学んだがゆえに、中国は改革開放を進める中で科学技術の飛躍的発展を遂げ、責任ある大国となったが、覇権国家の道を歩むことはない。

筆者はこう結論付けたい。新中国の成立、特に改革開放からの40年、中国の政治指導者たちは、当初、明治維新の成功体験から学び、科学技術と教育の発展に注力した。現在に至っては、明治維新後の悲惨な教訓から学び、他国を虐げるのではなくウィンウィンの関係を追求している。様々な観点から、日本の明治維新が中国に与えた影響は大きい。

歴史の大河は滔々と流れる。歴史の教訓と経験から学ぶことのできる為政者は間違いなく、国家と国民を新たな輝かしい歴史の創造へと導くだろう。その認識に立ち、我々が今、日本の明治維新150周年と中国の改革開放40周年を一考することには特別な意義があるのではないか。

 
  情報元:人民日報海外版日本月刊  
 
 
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