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編集長インタビュー
 
 
 
 
王 琨 日中グローバル企業連合会 会長
「情」を大切に、構図を描く新華僑
2018/11/22 22:47:12  文/本誌編集長 蒋豊
 
 

青年の名は王琨、しかし名刺には「金幸健一」とある。二つの名前の関係がよくわからないまま、彼は自分が丑年うまれだと教えてくれた。丑年生まれの人がみな屈強な「開拓者」の強情な性格を持っているかといえば、そうとも限らないだろう。しかし、その強情さが彼から発散されているのを感じたのである。

「孝」を抱いて日本へ

「少年時代に父をなくすのは人生の三大不幸の一つ」といわれるが、王琨は青島の高校2年生の時に突然父を病気でなくした。このことは、家族の大黒柱が倒れたというだけではなく、王琨は自分の人生の師も失ったと感じた。彼のカナダ留学計画も消えてしまった。

災難を前にすると、人は2種類に分かれる。災難を前にして倒れたまま立ち上がれない人と、災難を前にしてそれを勇気を持って直視し、災難に立ち向かい、最後には災難を過去として振り切ってしまう人の2種類である。王琨は、もちろん後者である。

海外留学の夢を捨てられなかった王琨は、カナダ留学という目標を日本留学へと変更しただけだった。その理由はシンプルだ。日本に留学すれば、母の経済的負担も軽くなるし、距離も近くなるので、頻繁に母に会いに帰れるからだ。このシンプルな理由に、彼が成長する中で身に付けた親孝行の気持ちが現れている。

孟郊の詩にいわく「慈母は旅立つ子に着物を縫う」。出発前の1カ月、王琨は母が毎日息子の旅立ちのための準備をしているのを見た。トランクに入れたと思えばまた出してくる。そして出してきた品物をまた入れている。ある日、王琨は母が中華鍋、米、調味料、腸詰めをトランクに入れるのを見た。飛行機に搭乗する前、王琨はどうにも自分を抑えられず、誰もいない隅を見つけて大声で泣いた。20歳になるまで母のもとを離れたことがなかった息子が、海を越えて見知らぬ日本へと旅立つ日、母は満面の笑みで見送りに来た人たちに、「息子が旅立つ時に目に入るのは私の笑顔だけ」と話したが、母の潤んだ目、そして息子を見ないようにしていた目を、息子だけが知っていた。

気迫で「飛び込む」

多くの来日した中国人留学生と同様、王琨は東京池袋の日本語学校に入学した後、勉強とアルバイト、生活の問題に直面した。

1カ月目、彼は友人の紹介で午前中と夜間にアルバイトをし、午後学校に通った。1カ月後に手にした給料は17万円で、人民元では1万元に相当する。この時、王琨は満足した気持ちになった。父は生前交通警察官だったが、月給は3000元余りしかなかったからだ。

しかし、王琨はこれを「アルバイトの鬼」になるきっかけにはしなかった。彼は、自分の日本語が下手なために、夜のアルバイト先で差別されていることに気づいた。目の前の金を追い求めてアルバイトを続ければ、どんな差別を受け続けるか分からない。

王琨は夜のアルバイトを辞めて日本語の勉強に打ち込むことを決めた。これは、彼には見通す力があるというよりも、感情のなせる業であった。一定期間が過ぎると、彼の日本語は上手になり、先輩や友達に頼ることなく、自分で電話して仕事を探せるようになった。

彼は、1軒1軒電話をし続け、話したが、電話を受けた10軒のうち9軒に断られたという。ある人は直接的に断り、ある人は婉曲に断り、ある人は日本語がもう少しうまくなったらまた電話するようにと言った。意地っ張りな王琨は、電話で仕事を探すのは日本語の実戦練習にもってこいだと考え、毎回電話をした後に辞書を引き、自分が聞いても分からなかった単語がどんな意味なのかを調べた。

ついに、ある日1軒のレストランが彼をアルバイトに雇うと言ってくれた。彼は電車に乗って店長の言った住所まで駆けつけようとして、電車を降りてから4時間探し回った。日本人の店長は、彼に電話をかけ続けて「どこにいるの、迎えに行こうか」と聞いてくれた。王琨は感激して、「自分で探します」と答えた。ついに彼らが会えた時、店長は「4時間あれば東京から北海道まで行けるよ」と言ったが、彼もこの「開拓者精神」を持った中国人青年を気に入ったのである。

王琨は「世の中の人間には三つのレベルがある。一流の人は、上司の目を見てその意をくみ取り、率先して動く。二流の人は、上司に言われてその通りに動く。三流の人は、上司に叱られないと動かないと、小さい頃から父に聞かされていた。私はこの三つよりも『超一流』の人になりたい。誰から何も指示されなくても自ら仕事を成し遂げる」と話す。

当時、王琨はこのレストランではじめての中国人スタッフであった。目も利き、手も動く彼は二人分の働きをした。彼は倦むことなく学び、メニューの暗記から始め、すぐに基本的な言葉をマスターした。彼は5年間務め、当初の時給1000円から、1350円へと昇給し、毎月奨励金も手にした。今回、そのアルバイトの日々を思い起こし、彼は感慨深げに「そこでずっと日本人店長に学んでいたが、一方で、もし自分が店長だったらどうするか、と自分に問いかけていた」と語った。この義務感、責任感が、彼が成長する精神的な基礎となったのかもしれない。


撮影/本誌記者 倪亜敏

優れた「選択眼」

王琨の選択は一般人と違う。

日本語学校を卒業する時、彼は日本大学法学部と文教大学国際学部に合格した。以前、彼は青島で希望した大学に合格できなかったので、日本留学を決めたのだが、この時には前途有望な日本大学法学部を選ばず、文教大学国際学部国際観光学科への進学を決めた。

彼はこの選択についてこう述べた。「私は2006年に日本に来ました。大学進学する2008年は、北京オリンピックが開催され、また日本が中国人観光客に門戸を広げつつある年でした。自分に先見の明があったとは思いませんが、でもひそかに中国人が大量に日本に旅行しに来る時代が来ることを予測していました。みな外国に出ると、外国の人だけが中国人観光客にサービスしてくれると考えますが、私は外国に来た後、現地のことをよく知っている中国人こそ中国人観光客にサービスできると思いました」。

眼力と決断は兄弟のようなものだ。眼力がなければ、決断する時に目の前の利益に惑わされる。遠くを見通せる眼力があれば、決断する際には遠大な利益を重視する。王琨は幸運なことに、文教大学に入学した後、文部科学省の4年間の奨学金を獲得できた。大学で、できるだけ日本人学生と一緒に過ごし、なるべく中国人留学生と接触しないようにしたのが、彼の秘訣であった。彼は、国際観光学科という専攻なので、日本人とたくさん接触しなければ、日本語が徹底してうまくなれないし、日本社会、日本文化、日本の生活の細部まで理解できない、そうしてこそ、中国人観光客に良いサービスができるのだという。

光陰矢の如し。4年間の大学生活はあっという間に過ぎ、卒業間近となった。同級生たちはみな就職活動をしており、王琨も例外ではいられなかった。しかし、彼は何度も日本企業の面接を受けた後、抑圧感を感じた。もし日本企業に就職したら、若い日々を無駄にしてしまうのではないかと思ったのだ。

「海外華僑の一人一人には起業や金もうけの血液が流れている」と言う人がいた。この言葉は正確だろうか。実際のところ、人によってそれぞれだろう。しかし、王琨はもう一度自身の個性を打ち出し、大学卒業後、起業したのである。

当時、日本では携帯電話が普及し、外国人の使うテレフォンカードの役目は終わりつつあった。王琨はこの点に目をつけ、早速電信業界に参入し、外国人観光客向けの携帯電話サービスを開拓した。

王琨の見たところ、一部の新華僑の先輩たちが通信業界にさざ波を立てていた。しかし、彼らは価格競争に追われており、中国人がずっと安物買いをするようなものだった。王琨はこれに逆行し、高級品に注力し、一心に中国人観光客が便利な、スピーディーな、最先端なものを使えるようにした。

彼は国際観光学を学んで、観光とは品質の転換と量から質への昇華であるという理論を知った。良い品質がなければ、数量も増加しない。数量が増加することで、品質の向上が余儀なくされる。さもなければ、ずっと価格競争を戦わなければならず、ずっと安物買いで、自身のイメージを改善しようとしてもできないのだ。

この考えを利用して、彼は卸売り、代理店、小売り、直売をした。利益は急上昇し、収入も急増した。彼自身の言葉によると、「2014年に私の事業は一つのピークに達した」。

この後、彼は油断して失敗した。「人生には一夜にしてゼロになる時もある」という時代だ。彼はこの時代を思いだし、重い気持ちで話す。「若くて意気盛んな時、天下に自分しかいないという時、優劣を比べなければならない時もあった。これらのすべてが、私の人生の財産となった」。


撮影/本誌記者 郭子川

「変化」に対応し、再度輝く

王琨は、電子商取引、日用品化粧品業界へと華麗なる転身を遂げた。もちろんこれは彼が学んだ国際観光学と関係している。

今回、王琨は日本の華僑華人市場に着目せず、直接海外市場に目を向けた。その結果は、われわれがここで説明するまでもないだろう。現在、王琨が「日本の華僑華人電子商取引業者の第一人者」となっていることが、その証明である。

われわれは王琨のビジネスのやり方に感心した。電子商取引が台頭し、各種のプラットフォームが出現し、玉石混交であり、偽物が横行したことに目を向けた。内心では、正義感、責任感の入り混じった気持ちが渦巻いて居ても立ってもいられなかった。彼はまず、友人の同業者たちとともに微信(WeChat)のプラットフォームを作り、「日中国際企業連合会」を組織し、偽物の駆逐に力を入れた。偽物を発見したら、微信のプラットフォームに通報する。もし約束が実行されないのを見つけたら、それを公表する。もしサービスが悪いのを見つけたら、投稿する。中国生まれの微信が、在日華僑華人社会で権利を維持する利器となっているのである。王琨の名声は広がった。

「情」を大切に、構図を描く

インタビューの間、王琨は自身の成功を熱心に語りはしなかった。彼は全体の構図を語り、心情を語り、未来を語り、日本の新華僑の次の時代の到来を積極的に語った。

電子商取引は社会に全面的な変革をもたらしたと王琨は言う。数量の変化に注目するだけではなく、もっとモデルの変化に注目すべきであり、アリババのジャックマーにしろ、テンセントのポニーマーにしろ、彼らがもたらしたのはビジネスモデルの変革であり、彼自身も新しいビジネスモデルを創造したいという。

さらに彼は、改革開放の40年で海外新華僑は起業し、成長し、台頭し、今日、海外華僑はすでに歴史の節目まで来ており、いかに質の高い成長に歩みを進めるか、祖国と運命共同体とである時に、海外新華僑の新しいイメージを作り出すことも、われわれが考えなければならない課題だという。

王琨は自身と結び付けて、こう語った。「企業には『三つの力と一つの巧』が必要だと思っている。『三つの力』とは、気力、体力、忍耐力で、『一つの巧』とは技巧のことだ。先輩の新華僑はわれわれにお手本を示してくれたが、われわれは彼らに負けないだけでなく、彼らを超えていかなければならない」。

近頃、日中青年促進会の成立3周年、2018年中国国際航空杯在日華僑華人青少年スピーチコンテスト、中国語メディア組織の日中企業家交流活動、中国遼寧省撫順青少年訪日団の招待など、すべて王琨が後援していることを知った。在日華僑華人社会をよく知る鳩山由紀夫元首相は王琨に、「このような新華僑ビジネスマンのリーダーを見ると、日中経済交流がさらに発展するだろうと感じる」と語った。

記事の最初に、王琨にはもう一つ「金幸健一」という名前があると書いた。彼は、この名の由来を「みんなにとってお金と幸福と健康が第一になってくれるといいという気持ちから」だと説明してくれたが、ある日本の国会議員は「このような名前が日本人の名前にもなってくれるといい」と言っていた。

最後に、『人民日報海外版日本月刊』は、新世代の構図を描き、情を持ったこのような華僑華人を宣伝し、サポートしなければならないと痛感したことをお伝えしておきたい。

 
  情報元:人民日報海外版日本月刊  
 
 
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