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編集長インタビュー
 
 
 
 
日中のアニメ制作にはさまざまなつながりがあった
鈴木 伸 一 杉並アニメーションミュージアム館長
2018/03/28 21:32:45  文/本誌編集長 蒋豊
 
 

東京の杉並区には日本のアニメ制作会社622社のうち138社が集結している(※1)。まさに「アニメのまち杉並」ではアニメ産業の成長を区の基本構想に描いているのだ。杉並アニメーションミュージアムは、「日本のアニメの歴史」から「これからの日本のアニメ」までアニメ全般を総合的に紹介する施設として、すでに2005年に開館した公共の施設である。館長の鈴木伸一氏は、日本のアニメ産業界にあって草分け的存在であり、トキワ荘時代前後の回想や、手治虫と中国との交流などについて語っていただいた。(※1:一般社団法人 日本動画協会2016年調査)

 
撮影/本誌記者 郭子川

トキワ荘には4番目に入る

—— もともと、どんなきっかけでアニメ業界に入られたのですか。

鈴木 終戦後の1946年に満州から引き揚げて、故郷の長崎に帰ったのですが、原爆投下の後の浦上はバラックの家さえないただの野原と化していました。とりあえず山の陰になって残った旧市街のお寺(母の実家)に身を寄せたあと、父親の仕事の関係で下関に引っ越して、そこの中学校に入りました。12歳のときです。その頃、買ってもらった「漫画少年」という雑誌に「読者の投稿欄」を見つけ、漫画の投稿を始めたわけです。「漫画少年」には寺田ヒロオさん、藤子不二雄さん(藤子F不二雄、藤子不二雄の二人)、石ノ森章太郎さんや赤塚不二夫さんも投稿していたので、その頃から、みんなお互いの名前を知っていました。

でも漫画との出会いは満州時代からなんです。その頃は子どもですから、自分のオリジナルではなくて『のらくろ』(田河水泡)とか『フクちゃん』(横山隆一)を模写して遊んでいました。父親の知人に洋画家で漫画も描いていた中村伊助先生という方がいらっしゃって、中村先生は満州で大きな製鉄所の社内誌の編集をしており、そこに漫画を描いていました。中村先生は戦後、福岡に引き揚げてから九州で漫画を描き、その後、近藤日出造さんという有名な漫画家を頼って東京に出て、そこで「漫画集団」に入られました。その中村先生を頼って、私も上京したわけです。

 
左から中国アニメの祖「万氏兄弟」(万籟鳴、万古蟾、万超塵)、手塚治虫、
中国のアニメ監督・王樹枕[1980年、上海美術電影製片廠](敬称略)

—— そうしてトキワ荘に入り、多くの漫画家仲間と知り合われたのですね。

鈴木 トキワ荘にはまず手治虫先生が東京での仕事場として入られ、続いて寺田ヒロオさんが入って、藤子不二雄さんが続き、私が4番目に入りました。その後、石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さんと、どんどん増えていったわけです。

私も最初は漫画が描きたくてトキワ荘に入ったのですが、中村先生と同じ漫画集団におられた横山隆一先生が「おとぎプロダクション」を設立してアニメーションを始められたんです。私は戦後、ディズニーのアニメを見て、非常にきれいだし面白いし、アニメが大好きになっていました。そうこうするうちに、中村先生が横山先生を紹介してくださり、大好きだった『フクちゃん』の作者がアニメ作りを始められたということで、当時住んでおられた鎌倉へ喜んで行ったんです。

 

漫画からアニメの道

—— 当時、日本のアニメというと、どんな作品があったのですか。

鈴木 そんなにたくさんはなかったです。戦争中の『フクチャンの潜水艦』とか、瀬尾光世さんの『桃太郎の海鷲』や『桃太郎海の神兵』などですが、今見ても童話のような柔らかい作品で、面白かったです。これらの作品は戦後に倉庫で発見されて、手先生と一緒に京橋の国立近代美術館フィルムセンターで見ました。

横山隆一先生はサンフランシスコ講和条約(1951年)の講和会議に漫画記者として取材されたおり、ロサンゼルスまで足をのばしてウォルトディズニースタジオへ見学に行かれました。その時に横山先生のアニメの『フクチャン』を見ていたウォルトディズニーに会って「あなたも作品をおつくりになったらいかがですか?」と言われたらしいんです。それで帰ってきて、16ミリフィルムのボレックスという撮影機を買い、横山先生のところへ出入りしていた人を助手にしてアニメーションをつくり始めました。その後、劇場で上映できる35ミリ撮影機で『ふくすけ』という作品をおつくりになるのですが、そのときに私が横山先生の「おとぎプロ」に入ったわけです。

 
左から段孝萱(上海美術電影製片廠・撮影技師)、厳定憲、特偉、手塚治虫、鈴木伸一、
古川タク(アニメ作家)、小野耕世(映画評論家)、持永只仁[1981年、東京](敬称略)

—— 手治虫先生も横山先生の影響を受けていたそうですが。

鈴木 そもそも横山先生がベレー帽をかぶっていらして、手先生はそれをまねたのです(笑)。手先生にとって師と仰ぐ存在でした。手先生は以前からアニメを作ることが目的でしたから、2回か3回、横山先生に話を聞きにいらした。横山先生は「アニメの会社は損をするからおやめなさい」と忠告されたそうですが、手先生はその時すでにアニメの撮影機も買って、やる気満々だったようです。

その後、手先生は自主制作で『ある街角の物語』(1962年)をつくり、それが毎日映画コンクールで大藤信郎賞(アニメ対象)を受賞しました。それとともに手先生はテレビ用の『鉄腕アトム』も試作するわけです。アニメ『鉄腕アトム』は1963年1月1日からテレビ放映されたのですが、私もああいうSFものにすごく憧れました。横山先生のおとぎプロはその名のとおり、どちらかというと、おとぎ話的な作品を手がけていましたので、私もSFとか新しいものをつくってみたくなり、おとぎプロをやめさせていただきました。トキワ荘仲間の藤子さんや石ノ森さんたちにその報告に行ったら、「自分たちでやろうじゃないか」と話が発展して、スタジオゼロという会社をつくったんです。

ところが会社はつくったけれど、スタッフはいないし、仕事なんて来ない。そうしたら手先生が『アトム』を一本外注に出したいと言ってくださった。それをみんな喜んで引き受けて、藤子さん(Fと)とか、石ノ森さん、つのだじろうさんたちと、『鉄腕アトムミドロが沼の巻』をつくりました。それを手先生に見せたら「ご苦労さま!」とは言われましたが、あまりいい顔をされませんでした。やはり漫画家は個性あってこそ「漫画家」。絵にそれぞれの癖が出てしまったのです。手先生はそれでも受け入れてくれましたが、次の仕事はありませんでした。

 
左から手塚治虫、持永只仁、岡本忠成(アニメ作家)、中嶋興(アニメ協会)、
木下敏治(木下としお:アニメ作家)、一人置いて特偉、福島治(アニメ作家)ら[1981年、東京](敬称略)

治虫と中国

—— 手先生と一緒に中国にも行かれたそうですが、どういうきっかけだったのですか。

鈴木 アニメーション協会にいた中嶋興さんという人が、けっこういろいろなことをやる人で、文化交流で中国に行こうという話を持ってきました。文化交流ですから、アニメのほかに、モダンバレエや歌の上條恒彦さんのグループと一緒でした。アニメの代表として手先生も行かれることになったんです。1980年のことです。

当時、中国にも良いアニメはあったのですが、知る人ぞ知るという感じでした。北京で公演した後、上海へ移動し、当時、中国で唯一のアニメスタジオであった上海美術電影製片廠(上海美術映画製作所)でいろいろな作品を見せていただきましたが、それが素晴らしかった。それらの作品の制作者にもお会いしました。

もともと戦後の中国のアニメーションを指導したのは、持永只仁さんという日本人です。持永さんは戦前、満洲映画協会(満映)にいて、名前は表に出ていませんが、『フクチャンの潜水艦』をつくった人です。終戦になって満映の機材類は中国共産党に接収されたのですが、中国の人たちには使い方がわからない。それで日本の映画関係者に引き揚げないで残って指導してくれないかということになって、持永さんも残ってアニメの指導をしたそうです。中国のアニメ業界では、神格化されている人です。そのことは持永さんの自伝『アニメーション日中交流記 持永只仁自伝』にくわしく載っているので、ぜひ中国の人にも知ってもらいたくて「中国語訳を出してほしい」と中国のアニメ関係者に会うたびに言っていたところ、昨年やっと出版されました。

 
厳定憲(左から4人目)、特偉(同5人目)ら中国のアニメ監督の来日を歓迎する手塚治虫(同3人目)、
日本のアニメ監督・持永只仁(同6人目)、アニメ作家で人形作家の川本喜八郎(右端)ら[1987年、広島](敬称略)

—— 手先生は中国ではどんなご様子でしたか。

鈴木 アジアで最初の長編アニメ『西遊記 鉄扇公主の巻』をつくられた万兄弟にお会いできるということで大興奮でした。その翌年、中国の水墨画アニメの撮影スタッフなどに来日していただき、池袋西武のスタジオで「中国アニメ映画祭」をやりました。ずいぶん人が集まったのですが、みんな中国アニメのクオリティーの高さに驚いたと思います。日本では水墨画が動くアニメなんてないですから。いまでは、中国に手プロの北京写楽というスタジオもあります。

 

日中双方でいいものができれば

—— 手先生が担われた中国と日本のアニメ交流の重要性や将来への展望について、お聞かせいただけますか。

鈴木 中国では今とてもアニメーション制作が盛んで、5~6年前にアニメの生産量が日本の2.5倍ぐらい(※2)でしたから…。ただ、作品の面白さからいうと、あまり制約のない日本のほうが上でしょう。実際、中国の人たちは日本の作品に興味をもち、面白いと思って見ています。『君の名は。』は中国でも大ヒットしたし、『ドラえもん』なども大人気です。一方、中国の作品が日本で上映されているかというと、ほとんどされていません。

しかし今後、双方の交流はさらに重要になっていくでしょう。当館のお客様も、中国の方がすごく増えていますし、文化というのは交流によって発展していくものです。アニメ業界でも、昔は日本から人件費の低い中国に下請けに出したりしていましたが、今は中国の人件費も上がり、日本が中国の下請けをやろうかみたいな話もありますからね(笑)。

中国の人たちは、日本アニメのキャラクターが大好きなんです。日本のデザインが好きですから「いいとこどり」でいいと思うんです。そうやって双方でいいものができればいい。そのうち中国でも面白い作品ができて、日本で大ヒットするようになる日が来るかもしれませんね。

(※2:ITmedia ビジネスオンライン:アニメビジネスの今http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1205/15/news016.htmlより)

 

取材後記

鈴木館長は藤子不二雄のマンガ作品に登場する「ラーメン大好き小池さん」のモデルとして有名だが、取材後に恒例の揮毫をお願いすると、「小池さん」のイラストで“日中友好”と書いてくださった。そして、最後まで中国との交流を紡いだ手治虫らの往年の写真を拝見し、もっとお話を聞きたくなった。

■写真提供:鈴木伸一氏

 
  情報元:人民日報海外版日本月刊  
 
 
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