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私の日中交流史 その三
榎 善教 エノキフイルム社長
2017/07/24 16:05:34  
 
 

横浜市立大の中国文学ゼミの授業では、波多野太郎先生と協議の結果、学外の中国人学生は自由に聴講させてあげようと学校当局には内密にして参加してもらいました。

1950年代には珍しい授業風景だったでしょう。横浜中華街では、こんな時代に中国文学を専攻するのは偉いと過分のお褒めを頂いて、しばしば望外の歓待を受けました。私は当時の横浜では知らぬ者がいないほど有名な鮑家のニ人の姉弟に日本語を教えるアルバイトを得ました。その待遇は破格な金額でした。


波多野太郎教授と教え子達

50年代後半には、日中友好協会に中国映画が届くようになりました。私はそれら中国映画を横浜市の労働会館や婦人会館などの公共施設で、会員制で見せたものです。

会員制にすると入場税が免除されるし、官憲も介入しにくいのです。

楊沫原作『青春の歌』や老舎原作『駱駝の祥子』、雲南省大理県で撮った『五房の金花』などでした。大方の映画はロマンチシズムに基づいていました。

しかし、それでも日本の官憲はかなり神経質でした。後に、中国の文化大革命にて、これらの映画は原作者と共に社会主義的リアリズムに欠けていると批判の対象になったと聞いて残念に思いました。私はとりわけ老舎が好きな作家だったからです。


大ベストセラー『昭和史』の著者達左から今井清一助教授と遠山茂樹教授右端は私です

一方、日米安全保障条約の改定反対の闘争は激しくなり、私はデモの先頭に立っていたので、しばしば警棒で叩かれて痛い思いをしておりました。その頃、『アジア学生の集い』という組織があり、そこで後に実業家になった任成光君と知り合いになりました。

学内には日中友好協会横浜市立大学支部を創設し、後に北京第二外語学院の先生になった塩見敦郎君と共に廃部になっていた中国研究会を立ち上げました。また、後に日本華僑総会会長になった殷秋雄君も入会してくれました。次いで、横浜中華街の発展に大いに寄与した劉燕雪君もおりました。彼女は幼時、後年中国作家協会会長になられた作家の謝冰心先生に非常に可愛がられて、北京に連れて行きたいと言われたそうです。

私はレッド・パージで地下に潜行していた先輩と連絡がとれる立場でしたので、遂には借家の前に2名の公安担当官が張り込みするようになりました。

その頃すでに私は日経連のブラックリストに掲載されていたので、就職は諦めていました。が、こうした私達を横浜中華街は優しく見守ってくれました。

 
  情報元:人民日報海外版日本月刊  
 
 
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