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私の日中交流史 (1)
榎 善教 エノキフイルム社長
2017/05/24 11:21:32  
 
 

まだ戦争は遠いと思われていた1940年春、その夜の我が家のホームパーティには、時の大女優田中絹代、新派の井上正夫、日本舞踊の花柳寿美(後の花柳流の宗家)など当時の芸能人が多数集まり、和気あいあいと楽しんでいました。

父は35ミリの映写機を回しながら、得意の弁士をやっていました。

父の助手は中国から亡命して来た華僑青年でした。

母は戦前のいわゆる左翼であり、1920年代から30年代にかけて、亡命して来る華僑青年達に密かに資金援助をしていました。密かにと言うのは、当時の特高(特別高等警察)の厳しい目を逃れる必要があったからです。母は彦根藩の城代家老の曾孫であったので、幕末の悲劇以来鍛え抜かれた人でした。

やがて、1945年5月に至り私達は空襲を避けて北海道に疎開しました。


映画人だった父・榎国雄31歳
樺太に出征の前日(1941年7月7日)

戦後何年かして、私は母が夜毎に北京放送を聞いていたので大いに影響を受けたものです。ところで、私の曾祖父は金山奉行に勤める幕臣でありましたが、1868年、明治元年に北海道に渡り、新潟出身の漁師達に融資して、石狩、留萌、増毛のにしん漁の綱元を育てました。これが大ヒットとなり、後に札幌の今井呉服店に融資して東日本最大の丸井今井百貨店創立を援けました。

曾祖母は鶴岡藩の斉藤家から嫁いで来ました。この斉藤家からは、高山樗牛(文芸評論家)と斉藤野々村(歌人)を輩出しています。この樗牛に影響されたのか、祖母は日頃から漢文をたしなむ人でした。

私は1952年に北海道立帯広柏葉高校(旧帯広中学)に進学したところ、旧制時代の名残りでそこは老荘哲学が盛んでした。何しろ私が暮らした学寮が『無心寮(老子の無為無心に由来)というのです。私は漢詩にのめり込み、ある時唐詩選を読んでいると先生が中国語読みをしてみなさいと『平仄法』の本を貸して下さいました。この事が中国文学に入るきっかけとなりました。

また、魯迅や老舎などすでに訳本が出版されていた中国現代文学も読み尽くしました。

1954年の夏、受験生必読の月刊誌『蛍雪時代』の課題詩『海』に応募したところ、私と青森高校3年生の寺山修司君の二人が入選しました。後に劇作家として大成した若き日の寺山修司でした。(続く)


北海道立帯広柏葉高等学校3年生の私

 
  情報元:人民日報海外版日本月刊  
 
 
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